愛憎・父・春樹

 僕は村上春樹の文章が好きだ。それとはべつに、走ることも好きだし、ジャズも聴く。すると、村上春樹さんの影響を受けたんですね、と指摘されることがある。これは非常に困る。何の関連性もないからだ。ジャズが好きで村上春樹が好きと言うと、たいてい影響を受けたと思われる。僕が村上春樹を読むと言ったら、あるジャズレコード店の店主に、なぜかニマニマされた。あまりいい思いをした記憶がない。
 僕がジャズを聴く直接のきっかけになったのは、例にもれずヴィレッジ・ヴァンガードである。10年ほど前、面白い本屋ができたよと評判の店内に足を踏み入れると、聴いたことがないほどごきげんで、クールな心浮き立つ音楽がかかっていた。今思い返すと、あれはソニー・クラークのクール・ストラッティンだったんだけど、なぜか僕はそのとき店員にかかっている音楽を訊ねたりしなかった。でも、僕はその音楽をもっと聴いてみたいと思った。その日、適当に2、3枚のジャズCDをみつくろって買ってきた。バド・パウエルのザ・シーン・チェンジズと、ジョン・コルトレーンジャイアント・ステップスだ。両者は意味合いは違えど、とてもジャズ的なアルバムだった。僕は一日でその音楽のとりこになってしまった。というわけで、僕はずぶずぶとジャズCDを集めていくことになったのだ。
 なぜ村上春樹の影響を受けたと言われることをよく思わないか。答えはシンプルだ。僕は書くことで勝負していきたい。そうなった以上、村上春樹に影響を受けすぎることは好ましくないのである。村上春樹の文章は魅力的だ。いっときのユーモラスな比喩や文体を捨てて、ぎりぎりのところまでミニマライズしているように見える。触れただけで指が飛んでしまうほどの切れ味を備えた日本刀がたたえる鈍い光を思わせる。加えて、こつこつと溜め込まれた守備範囲の広い知識、音楽・文学的な造詣の深さ、時事的・個人的なトピック、それらは自在に村上的なモチーフとして加工されとりこまれ、小説をより多義的に、エキサイティングにする。国際的にも知名度は高い。訳書も多い。現代日本文学のファーザーといってもいいだろう。だが、僕たちは、その父を超えていかなくてはいけないのだ。薩摩のイチローと同じである。二番煎じでは意味がないのだ。
 影響とは、くるおしくのめりこめりながらも、どこかで見据える冷めた目がなくてはいけない。いっときぬけだせないほどずっぽりつかっていた僕としては、村上春樹に対しては愛憎いりまじった思いがある。父親に対しては、敬愛は心のかたすみに置いておいて、反抗心や斜にかまえた姿勢を表に出しておいたほうが健康的なのである。

COOL STRUTTIN' '99

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