Alternative Ourselves

 フェイスブックで知人の名前を検索していて気づくのは、この世に同じ名前を持った人間がいかに多く存在しているか、ということである。ためしに自分の名前を検索してみたところ、あまりたくさん見つかるとは思えそうにないその名前も、複数の検索候補があがってきた。自分のオルタナティブな存在である彼らに、彼らのオルタナティブな存在である自分に、僕は想いを馳せる。
 ふと、僕は父親の名前を検索する。父がフェイスブックをやっていたら嫌だ。でも見てみたい……。入力したところ、父らしき人は見つからなかったが、やはり同姓同名の人はあがってきた。父と漢字まで一字と違わないまったく同姓同名のその人は、ナオト・インティライミ湘南乃風を聴き、東野圭吾を読み、冬にはスノーボードを楽しむ。父は日本やドイツの民謡の歌詞を自分の好きなように替え歌にして歌うことを好み、すきあらば駄洒落を飛ばし、休日は一日寝て過ごす。同じ名前でも、その趣味やそこから垣間見える人となりはずいぶんと違う。姓名判断ではどこかに共通点が見つかるのだろうか。少なくともフェイスブックにおいては、異なる点を探すほうに俄然ひかれてしまう。