言葉の可能性

 数年前、友だちと本の感想のやりとりをしていたときに“身の毛がよだつ”と言おうしたんですが、ちゃんと言えなかったせいでその友だちに突っ込まれて、「僕は自分が思っている以上に日本語がちゃんと使えていないんだ」と痛感したことがありました。それからしばらくは、読んでいた本に知らない単語が出てくるとそのたびにメモを取り、暗記をしました。当時はランニングをしていましたから、走っているときに、“面食らう”とか、“怖気だつ”とか、“だしぬけに”だとか、メモをとったばかりの単語を頭のなかで反芻するわけです。
 しかし、最初のうちは意識して覚えたばかりの“怖気だつ”を使って文章を書いたりするのですが、時がたつにつれて忘れてしまいます。僕は英検取得の勉強のときずいぶん英単語を覚えましたが、今ではほとんど忘れてしまいました。暗記という作業は、時の経過とともに暗記内容が摩耗していくという難点があります。
 逆に自分のものになる言葉というのは、無意識から絞り出してくる単語です。翻訳に取り組みます。その形容詞の意味は辞書に載っていますが、いまいち文脈にそぐわない。そういうときに無意識から絞り出してきた単語は、自分のものになります。身にこびりついて、一生忘れることはありません。だから、僕は最近意識的に読む本の量を増やし、暗記をすることはせずに、無意識に言葉を蓄えるようにしています。潜在的に使える言葉をためておき、いざというときに絞り出すことによって、自分のものになる言葉を増やそうという試みです。
 あまり褒めたくないんですが、先日村上春樹さんの訳書を読んでいたら、「きびきびした空気」という表現が出てきました。“きびきび”というのは行為などに使う言葉で、“空気”に対して使う言葉ではありませんでした。村上さんは、“きびきび”という言葉の新たなる地平を切り開いたわけです。
 言葉は今までとは違う使い方をしたり、名状しがたい想念を喚起したりすることができます。可能性はまだまだ潜在しています。いかに言葉の可能性を掘り起こしていくか、その一端に加われたら、できればもう掘っていることすら忘れるほどに掘り進めていけたらと思います。