多義的な読みの洗礼

 高校のとき、国語で漱石の「こころ」を読んだ。その国語の教師は授業の最後に、クラスの全員に、「こころについて、漱石自身の言おうとしていることが正しいのか、それとも読者の解釈したことが正しいのか、どちらだろうか」という趣旨の質問をした。僕は自分の解釈したことが正しいと答えた。クラス全体でも、ややそちらのほうが多かった。
 大学のとき日本文学の講義で、鴎外の高瀬舟をテーマに、物語の続きに想像を馳せたレポートを書いた。すると、その日本文学の教授は、小森陽一さんの本を紹介してくださった。テキスト論に関する本だった。
 またほかの講義では、構造主義ポストモダンを専門にしている別の教授が、「かつては作品のauthorityはauthor(作者)にあったが、じょじょに読者のほうに移ってきた」と言った。
 まあ、もともと僕に、作品を自分に引きつけて読む傾向があるからなんだろうけれど、「読みは多義的であっていい」ということは学生時代を通じて僕の糧となった。読者次第でいかようにも解釈できるように作られた作品は大好きだ。専門家や評論家がどう言おうと、自分がそうだと思ったら自信を持ってその作品の解釈を語っていいのだと思う。