大きな物語の解体

 僕は、本の装画なり喫茶店の掛け絵なりで気に入った絵に出遭うと、その画家をついインターネットで調べたり、店の人に訊ねたりしてしまう。それほど詳しいわけじゃないけど、自分なりに好みの絵というものはある。
 佐々木美穂は、石田千の本の挿し絵で知った。調べていくうちに、松浦弥太郎の本にも挿し絵を描いていることを知った。展覧会には行ったことはないんだけど、ちょくちょくホームページを見てしまうくらいにはファンである。
 佐々木に惹かれた理由は、やはりそのわかりやすさだと思う。色彩の組み合わせが持つ繊細さに、そしてシンプルであることの可愛らしさにどきりとさせられた。
 それにひきかえ、現代美術はひどくわかりにくいものになってしまった気がする。まあ全部が全部とは言わないけれど、現代美術は解釈を強制する。その強制は、少なくとも僕にとってはとても窮屈だ。なんだか鼻白みさえしてしまう。
 初めて岡山の大原美術館に行ったとき、セザンヌの絵の前で自然に足が止まった。セザンヌは画集では見たことはあったんだけど、それほど興味を惹かれなかった。でも、大原美術館で実物を目の前に対峙したとき、絵から醸し出される品格にうちのめされるような思いがした。
 ジャズでもアートでもそうだけど、ジャンル自体に自意識が芽生えて自らに懐疑心を抱き、しゃにむに自分を解体していく時期がある。そのあとにいったい何が残るのかというと、いささか首をかしげざるをえない。猜疑心とでも言えばいいのだろうか。自らを解体した後でハードバップをやろうとしても、なかなかやれるものじゃない。
 アートにしても、ここまで現代美術が面白くないと、展示に足を運ぶ気にはなかなかなれなくなってしまう。大きな物語は解体され、小さな物語へと分散されていく。僕は難解な現代美術の展示はよそ目に、古き良き時代の絵画の展示や、本の装丁や喫茶店の掛け絵で見つけた、ビッグネームじゃなくても自分なりに大切に思える作家の作品を楽しみたいと思う。

そら色の窓

そら色の窓